七夕に思い出す、鮭の歌。
こんばんは、40代になりました、炭素IKです。
メール、メッセをくれた皆様、ありがとうございました<(_ _)>
考えてみると、誕生日っていうのは人生のうち、100回も経験できるものではありません。100歳まで生きれば別ですけど、生きたとしてもそうそう好きなように動き回ってもいられないと思います。
だから、好き勝手なことができる誕生日なんていうものはあと何回経験できるのかってハナシです。
誕生日には好きなことをして好きなように時間を過ごす。
最高の贅沢ではないですか。
年を重ねるにつれて、「あんまりめでたくない」なんていう気持ちが芽生えちゃったりもしますが、この世に誕生した記念日です。誰にでもあるけれど、年に一回しかないんです。ちょっとくらい自分を甘やかして心に残る誕生記念日を思い出として残すのもステキなことだと思うのです。
そして私は誕生日の夜、家族が寝静まるのを待ってふらりふらりと徘徊するのでしたw

夜の街というのは、小さな箱みたいなスペースで区切られた空間がたくさんあって、その小さな空間にはそれぞれ人の想いが交錯しております。いろんな人がいて、いろんな色に見えます。綺麗な色もあれば汚い色もあって、それらがごちゃまぜに混ざって、まるでマーブル模様のように見えます。
見たことのない箱の中がいくらでもある。似通った中身だったとしても私は開けずにはいられません。開けて、開けて、開けまくるのです。経験が増えるに連れて得られる感動が少なくなるのだとしても、それでも開けないわけにはいきません。一体何が私を呼ぶのだろうかと思いながらも、何かを想うために彷徨い、その彷徨う行為を楽しめるうちは楽しんでおこうと思います。

ところで、明日は七夕ってヤツですね。
おり姫とひこ星伝説の七夕。
メルヘンなおとぎ話。小さい頃、大好きな王子様的な人に一年に一回しか会えないなんて、なんと可愛そうな姫であるか…と哀しい気持ちになる前に、私だったらその「天の川」、無理やりにでもサブサブ渡って会いにいくんじゃないかなぁ…なんて思ってました。何にもしないで待っているだけのおり姫とひこ星に、貴様らはそれでいいんか!と言ってやりたくて仕方なかったです。熱い心を持っていたんですなぁ。
でも今考えると「年に一回しか会わない単身赴任ですか。面倒じゃなくていいんじゃないすかね。」なんて言えちゃうんですから、時の流れとは恐ろしいものです。明日の七夕にはぜひ、一年に一度の楽しいデート…いや、一年に一度だからこそ楽しいデートを堪能していただきたいものだと心から思います。
だけど星の寿命を考えると365日なんていうのは3秒くらいのハナシらしいですから、可哀そうでもなんでもないかもしれませんけどね。
そして七夕である明日は、息子の学校の音楽祭でございます。ばーちゃんと私で見に行きます。七夕のお歌でも歌うのかなぁ~と思いきや「すずめのサンバ」だそうです。何それ七夕関係ないじゃん、なかなか面白い選曲だなぁ…と思ってみたり。
七夕に開催される音楽祭は誰もが「七夕の歌」を歌うものだと思うはず。でもそんな当たり前の時代はもうダメだ、七夕にまどわされず、新しい時代の新風を巻き起こすべきだ!と、きっとお代官様が考えたに違いない。
「七夕の日にはスズメに活躍してもらおうじゃないか…誰もいきなりスズメが出てくるとは思うまい、くっくっくっ、観客どもの驚く顔が目に浮かぶようじゃ、ふぉーっっほっほっほほほほほ。」
「さすがはお代官様。まさか七夕にスズメ、しかもサンバは誰も思いつくはずがございません。人々の驚愕の表情、ワタクシも楽しみでございます。」
「ふっふっふっ、越後屋、お主も悪よのぅ…。」
たぶんこんなカンジで「スズメのサンバ」なんだと思います。
楽しく歌っておくれ、我が息子。
私は昔から嫌いな歌は歌いたくない可愛げのない子供でした。小学校の音楽祭で一番歌ってて勘弁してもらいたかったのは「鮭の歌」(鮭が川に戻ってきて産卵する習性を約束と題して美化したお歌)。
とにかく熱血な担任のセンセーは、心を込めて、鮭の気持ちになって歌えと言うのです。鮭は辛く厳しい棘の道を乗り越えて、そして卵を産むために頑張っているのだと言いました。どんなに苦しいことにも負けずに川をのぼっていくというのはものすごく根性がいることで、並大抵の努力では産卵場所にはたどり着けないと言っていました。それでも約束を果たすために命がけで頑張っている、そんな鮭の気持ちを考えて、この歌を歌えと言うのですよ…。
素直に、なんでセンセーは鮭にここまで感情移入できんの?というのがまず本音。
で、偏屈野郎なワタクシですから、
そこまで鮭を愛してんなら鮭食うな。とか、
そんだけ辛い思いをして産み落としたっていうイクラを食うな。とか、思ってしまいます。
挙句の果てに、
♪鮭よ 荒波に 揉まれて幾年か~♪
ていうところで「ストーーーーーーップ!!!!!」と、怒りだし、
「本当に鮭の気持ちになって歌っていますか?」等と、まるで道徳の授業のように説教が始まるんですから、ソレ系が大嫌いな私はもういてもたってもいられなくなってしまうわけです。
別にね、「鮭の歌」っていう歌があってもいいんだけど、私は鮭の気持ちにはなりたくないし、もちろん感情込めてなんて歌いたくもないし、鮭を尊敬しているわけでも、溺愛しているわけでもないんだから、いろいろ無理!ってなってしまうんです。
でも私はそんな、思ったことを素直に先生に言ってしまうほどバカなわけでもないんです。言っても無駄であることは言ってはいけないと思っているし、一応優等生の仮面を被っていたので、とにかく無言でそのストレスと戦うしかなかったのです。
しかし、私の体質というのは困った体質で、瞬間的にさえストレスを溜めこむことができません。我慢するはずのそのストレス。鮭の気持ちにはなりたくないというストレス。そのストレスはすぐに形となってあらわれでました。わかりやすい形です。見ればすぐわかっちゃう形なんです。
「いずきちさん、何ですか、その顔は。」
そう言われて初めて、私は自分の顔のあご部分に異様な力を入れていることに気が付きました。下あごをギっと突き出し、しゃくれさせていたのです。そう、身体で鮭を表現しておりました。心は自由、私は鮭の気持ちにだけはならん、という頑なな心が、私の顔をそうさせてしまったのかもしれません。
顔を鮭にしている私の方を同級生たちが一斉に見ました。私はこんな時、直ちに顔を元に戻して恥ずがっている姿を晒すなら、いっそこのままこれを貫きたいと思ってしまうしょーもない(治せない)性格です。ですから私は下あごを突き出し、顔を鮭にしたまま先生に
「鮭になってます。」
と言ったのです。
今風に言えば「アイーン」ってヤツです。こんなんでホント、よく私を好きになってくれる男の子がいたよなぁって不思議に思えるほどバカとしか言いようがありませんが、いろいろな選択肢において常におかしな方向を選ぶクセのある私は、決して受け狙いでなくこれをやってのけたわけです。
堂々とそういった私を先生は怒りませんでした。先生は鮭の気持ちになろうとするあまりに、そういう顔になってしまったものだと解釈したらしいのです。和やかな笑とい共に、
「顔まで鮭にならなくてもいいのよ?」と、優しく私に笑いかけてくれました。
その瞬間私の心には葛藤が生まれます。
ここで鮭をやめるべきか、やめないべきか。
顔ではなく、気持ちで鮭になれという先生に対して、説明のできない反抗心が生まれちゃって生まれちゃってどうにもならないのです。どうしてそういう無意味な反発をしたくなってしまうのか分かりませんが、
「わかりました、顔でなく心で鮭になります。」と、なぜか言えなかったんです。
無言でしゃくれあごのまま、先生を見つめる少女いずきち。
先生も恐ろしかったんじゃないかと思いますけど、私は私でワケはわかりませんが辛かったです。
その後、その異様な雰囲気をどうにかしようと先生はしゃくれ顔の私から目をそらし、何事もなかったかのように歌の練習に戻りました。私はしゃくれ顔を崩さずに歌を歌いました。だんだんあごが疲れて辛くなってきましたが、完全に顔を元に戻すタイミングを失ってしまったのでもうこのままいるしかありません。
地獄のような歌の練習時間になりました。
「鮭の歌」を鮭の顔で歌う少女。なかなかいないと思います。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう…と少し思いましたがその時はただ、しゃくれているのが恥ずかしいのではなく、あごが痛くて辛かった。ある意味辛いという感情で歌った私が一番鮭の気持ちに近かったのかもしれません。
そんな私は今、ヴォーカリスト。
あの時言えなかった言葉、
「私はこんな歌は歌いたくない!」
そんな、思い出。
(あと、「鮭の歌」じゃなくて「約束」っていう歌だった)
メール、メッセをくれた皆様、ありがとうございました<(_ _)>
考えてみると、誕生日っていうのは人生のうち、100回も経験できるものではありません。100歳まで生きれば別ですけど、生きたとしてもそうそう好きなように動き回ってもいられないと思います。
だから、好き勝手なことができる誕生日なんていうものはあと何回経験できるのかってハナシです。
誕生日には好きなことをして好きなように時間を過ごす。
最高の贅沢ではないですか。
年を重ねるにつれて、「あんまりめでたくない」なんていう気持ちが芽生えちゃったりもしますが、この世に誕生した記念日です。誰にでもあるけれど、年に一回しかないんです。ちょっとくらい自分を甘やかして心に残る誕生記念日を思い出として残すのもステキなことだと思うのです。
そして私は誕生日の夜、家族が寝静まるのを待ってふらりふらりと徘徊するのでしたw

夜の街というのは、小さな箱みたいなスペースで区切られた空間がたくさんあって、その小さな空間にはそれぞれ人の想いが交錯しております。いろんな人がいて、いろんな色に見えます。綺麗な色もあれば汚い色もあって、それらがごちゃまぜに混ざって、まるでマーブル模様のように見えます。
見たことのない箱の中がいくらでもある。似通った中身だったとしても私は開けずにはいられません。開けて、開けて、開けまくるのです。経験が増えるに連れて得られる感動が少なくなるのだとしても、それでも開けないわけにはいきません。一体何が私を呼ぶのだろうかと思いながらも、何かを想うために彷徨い、その彷徨う行為を楽しめるうちは楽しんでおこうと思います。

ところで、明日は七夕ってヤツですね。
おり姫とひこ星伝説の七夕。
メルヘンなおとぎ話。小さい頃、大好きな王子様的な人に一年に一回しか会えないなんて、なんと可愛そうな姫であるか…と哀しい気持ちになる前に、私だったらその「天の川」、無理やりにでもサブサブ渡って会いにいくんじゃないかなぁ…なんて思ってました。何にもしないで待っているだけのおり姫とひこ星に、貴様らはそれでいいんか!と言ってやりたくて仕方なかったです。熱い心を持っていたんですなぁ。
でも今考えると「年に一回しか会わない単身赴任ですか。面倒じゃなくていいんじゃないすかね。」なんて言えちゃうんですから、時の流れとは恐ろしいものです。明日の七夕にはぜひ、一年に一度の楽しいデート…いや、一年に一度だからこそ楽しいデートを堪能していただきたいものだと心から思います。
だけど星の寿命を考えると365日なんていうのは3秒くらいのハナシらしいですから、可哀そうでもなんでもないかもしれませんけどね。
そして七夕である明日は、息子の学校の音楽祭でございます。ばーちゃんと私で見に行きます。七夕のお歌でも歌うのかなぁ~と思いきや「すずめのサンバ」だそうです。何それ七夕関係ないじゃん、なかなか面白い選曲だなぁ…と思ってみたり。
七夕に開催される音楽祭は誰もが「七夕の歌」を歌うものだと思うはず。でもそんな当たり前の時代はもうダメだ、七夕にまどわされず、新しい時代の新風を巻き起こすべきだ!と、きっとお代官様が考えたに違いない。
「七夕の日にはスズメに活躍してもらおうじゃないか…誰もいきなりスズメが出てくるとは思うまい、くっくっくっ、観客どもの驚く顔が目に浮かぶようじゃ、ふぉーっっほっほっほほほほほ。」
「さすがはお代官様。まさか七夕にスズメ、しかもサンバは誰も思いつくはずがございません。人々の驚愕の表情、ワタクシも楽しみでございます。」
「ふっふっふっ、越後屋、お主も悪よのぅ…。」
たぶんこんなカンジで「スズメのサンバ」なんだと思います。
楽しく歌っておくれ、我が息子。
私は昔から嫌いな歌は歌いたくない可愛げのない子供でした。小学校の音楽祭で一番歌ってて勘弁してもらいたかったのは「鮭の歌」(鮭が川に戻ってきて産卵する習性を約束と題して美化したお歌)。
とにかく熱血な担任のセンセーは、心を込めて、鮭の気持ちになって歌えと言うのです。鮭は辛く厳しい棘の道を乗り越えて、そして卵を産むために頑張っているのだと言いました。どんなに苦しいことにも負けずに川をのぼっていくというのはものすごく根性がいることで、並大抵の努力では産卵場所にはたどり着けないと言っていました。それでも約束を果たすために命がけで頑張っている、そんな鮭の気持ちを考えて、この歌を歌えと言うのですよ…。
素直に、なんでセンセーは鮭にここまで感情移入できんの?というのがまず本音。
で、偏屈野郎なワタクシですから、
そこまで鮭を愛してんなら鮭食うな。とか、
そんだけ辛い思いをして産み落としたっていうイクラを食うな。とか、思ってしまいます。
挙句の果てに、
♪鮭よ 荒波に 揉まれて幾年か~♪
ていうところで「ストーーーーーーップ!!!!!」と、怒りだし、
「本当に鮭の気持ちになって歌っていますか?」等と、まるで道徳の授業のように説教が始まるんですから、ソレ系が大嫌いな私はもういてもたってもいられなくなってしまうわけです。
別にね、「鮭の歌」っていう歌があってもいいんだけど、私は鮭の気持ちにはなりたくないし、もちろん感情込めてなんて歌いたくもないし、鮭を尊敬しているわけでも、溺愛しているわけでもないんだから、いろいろ無理!ってなってしまうんです。
でも私はそんな、思ったことを素直に先生に言ってしまうほどバカなわけでもないんです。言っても無駄であることは言ってはいけないと思っているし、一応優等生の仮面を被っていたので、とにかく無言でそのストレスと戦うしかなかったのです。
しかし、私の体質というのは困った体質で、瞬間的にさえストレスを溜めこむことができません。我慢するはずのそのストレス。鮭の気持ちにはなりたくないというストレス。そのストレスはすぐに形となってあらわれでました。わかりやすい形です。見ればすぐわかっちゃう形なんです。
「いずきちさん、何ですか、その顔は。」
そう言われて初めて、私は自分の顔のあご部分に異様な力を入れていることに気が付きました。下あごをギっと突き出し、しゃくれさせていたのです。そう、身体で鮭を表現しておりました。心は自由、私は鮭の気持ちにだけはならん、という頑なな心が、私の顔をそうさせてしまったのかもしれません。
顔を鮭にしている私の方を同級生たちが一斉に見ました。私はこんな時、直ちに顔を元に戻して恥ずがっている姿を晒すなら、いっそこのままこれを貫きたいと思ってしまうしょーもない(治せない)性格です。ですから私は下あごを突き出し、顔を鮭にしたまま先生に
「鮭になってます。」
と言ったのです。
今風に言えば「アイーン」ってヤツです。こんなんでホント、よく私を好きになってくれる男の子がいたよなぁって不思議に思えるほどバカとしか言いようがありませんが、いろいろな選択肢において常におかしな方向を選ぶクセのある私は、決して受け狙いでなくこれをやってのけたわけです。
堂々とそういった私を先生は怒りませんでした。先生は鮭の気持ちになろうとするあまりに、そういう顔になってしまったものだと解釈したらしいのです。和やかな笑とい共に、
「顔まで鮭にならなくてもいいのよ?」と、優しく私に笑いかけてくれました。
その瞬間私の心には葛藤が生まれます。
ここで鮭をやめるべきか、やめないべきか。
顔ではなく、気持ちで鮭になれという先生に対して、説明のできない反抗心が生まれちゃって生まれちゃってどうにもならないのです。どうしてそういう無意味な反発をしたくなってしまうのか分かりませんが、
「わかりました、顔でなく心で鮭になります。」と、なぜか言えなかったんです。
無言でしゃくれあごのまま、先生を見つめる少女いずきち。
先生も恐ろしかったんじゃないかと思いますけど、私は私でワケはわかりませんが辛かったです。
その後、その異様な雰囲気をどうにかしようと先生はしゃくれ顔の私から目をそらし、何事もなかったかのように歌の練習に戻りました。私はしゃくれ顔を崩さずに歌を歌いました。だんだんあごが疲れて辛くなってきましたが、完全に顔を元に戻すタイミングを失ってしまったのでもうこのままいるしかありません。
地獄のような歌の練習時間になりました。
「鮭の歌」を鮭の顔で歌う少女。なかなかいないと思います。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう…と少し思いましたがその時はただ、しゃくれているのが恥ずかしいのではなく、あごが痛くて辛かった。ある意味辛いという感情で歌った私が一番鮭の気持ちに近かったのかもしれません。
そんな私は今、ヴォーカリスト。
あの時言えなかった言葉、
「私はこんな歌は歌いたくない!」
そんな、思い出。
(あと、「鮭の歌」じゃなくて「約束」っていう歌だった)
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