秘密の「会」に歌いたい歌。

母に怒られないように、お仕事ばっかりしていますが、たま~に思います。
私がやらなきゃ誰がやるんだい?
と。
でも怒られるくらいで丁度いい。
怒られなかったらたぶん私は家庭を顧みないこと間違いなし。
やろうと思っていることの妨げになることはことごとく捨て去ってしまえるこの性格でも、さすがに家庭を捨ててはいけない。そもそもその家庭の為に働いているのだけれど、仕事に面白さを見出してしまうから、楽しくもあるけれど、身体にはよくない。
来月は健康診断にも行ってこようと思います~(*^_^*)
最近うちのダンナ様は、なにやら素敵な「会」で楽しくやっているみたいです。
「ハンサム会」という名のその会は、「半分寒い」という意味の会らしいのですが、その会のメンバーを一目みたならば、どんなふうに寒いのかがすぐ分かってしまうという単純明快な「会」です。
私はその「会」のメンバーであるダンナ様にこんな素敵な曲を教えてあげたい。
今日も、ダンナ様が横たわるソファの横で、私は掃除機を掛けながらこの曲を口ずさんでおりましたが、基本私の歌なんて興味も示さないダンナ様ですから、気づきもしませんよ、ホホホホホ。
ハンサム会の名刺でも作ってプレゼントもしてやろうと思っています。
しかもインクジェットなんてケチなこと言わないで、オンデマンドなんて中途半端なこと言わないで、オフセット来いや。っていうバカみたいなことしちゃいそうで怖いです。オフセット来いや!だと、名刺じゃなくてもうチラシだな。三つ折りパンフだな。大量に。
そしてそれはクリスマスプレゼントだ。
ヒドイ妻だと思われるかもしれませんが、ダンナ様は私がそんな奴だと知っていますから大丈夫です。
私が多少凶悪でも気にしないダンナ様バンザイ♡
黄色いウ○コのようなもの
カツラ生活も順調です。
自由人とはいっても自由ってほど自由でもない世の中。
そこにストレスを感じるならば、感じないように工夫する…。
それがどんなにアホらしくとも、成り立ってしまえばそれでいいのだ。
現に今日も普通にカツラかぶって打ち合わせしてました(笑
それにしても黄色すぎる。だから私は黄色は嫌いなんだっつーの。

これがカツラみたいだと、鏡を見つつ思ったり。
ていうか、カツラじゃなくってウィッグとかオシャレな言葉を発しよう。
黄色率が高いと、似合う洋服がかなり限定されてしまいます。
これにパンツスーツなんて着てみなさい、アタマの悪いホストのようです。残念感どっさり。
そして「考える」という行為が苦手なくせに、「考え事」なんてしちゃってると、その辺にあった変な雪だるまみたいな小さいコケシもどきがくっついた耳かきで髪の毛をぐるぐるぐるぐる…。
ふと鏡をみたらあんまりにも面白くて独りで笑ってしまいました。

黄色いウンコ。
それにしてもうちの家族は、こんな私に対してびっくりするほど何にも言いません。諦めているにしてもほどがあるだろう、ダンナ様に息子に弟よ…。
そういえば癒され画像見つけたんだった。
でも、悪趣味じゃない人はきっと癒されません(`´)
私は蛇の身体の構造を愛しているので、この画像が可愛くて可愛くて仕方がないのですが、はたしてそれを理解してくれる人なんているのか?と、常に疑問は抱いております。別に否定されない幸せな環境にいるので文句もないんですけどね♡
(注 蛇苦手な人は見ないでネ)
明日は日曜日、家族サービスでもしとくか。
明日はかぶんねーよ、カツラ…じゃなくてウィッグ。
それではいい夢を。
グットナイトマイスイートハニー(-。-)y-゜゜゜
子守唄は「ダンウィッチの怪」。うん、子守唄にぴったりだ。
自由人とはいっても自由ってほど自由でもない世の中。
そこにストレスを感じるならば、感じないように工夫する…。
それがどんなにアホらしくとも、成り立ってしまえばそれでいいのだ。
現に今日も普通にカツラかぶって打ち合わせしてました(笑
それにしても黄色すぎる。だから私は黄色は嫌いなんだっつーの。

これがカツラみたいだと、鏡を見つつ思ったり。
ていうか、カツラじゃなくってウィッグとかオシャレな言葉を発しよう。
黄色率が高いと、似合う洋服がかなり限定されてしまいます。
これにパンツスーツなんて着てみなさい、アタマの悪いホストのようです。残念感どっさり。
そして「考える」という行為が苦手なくせに、「考え事」なんてしちゃってると、その辺にあった変な雪だるまみたいな小さいコケシもどきがくっついた耳かきで髪の毛をぐるぐるぐるぐる…。
ふと鏡をみたらあんまりにも面白くて独りで笑ってしまいました。

黄色いウンコ。
それにしてもうちの家族は、こんな私に対してびっくりするほど何にも言いません。諦めているにしてもほどがあるだろう、ダンナ様に息子に弟よ…。
そういえば癒され画像見つけたんだった。
でも、悪趣味じゃない人はきっと癒されません(`´)
私は蛇の身体の構造を愛しているので、この画像が可愛くて可愛くて仕方がないのですが、はたしてそれを理解してくれる人なんているのか?と、常に疑問は抱いております。別に否定されない幸せな環境にいるので文句もないんですけどね♡
(注 蛇苦手な人は見ないでネ)
明日は日曜日、家族サービスでもしとくか。
明日はかぶんねーよ、カツラ…じゃなくてウィッグ。
それではいい夢を。
グットナイトマイスイートハニー(-。-)y-゜゜゜
子守唄は「ダンウィッチの怪」。うん、子守唄にぴったりだ。
入浴惨劇
暑い。

頭の沸き加減も暑さと共に上昇中。
だから本日の以下の長文は読まない方が身のためです。
暑中お見舞い申し上げ。
【入浴惨劇】
ウォッシャブルスーツに魅かれて購入するくらい、夏の暑さはいいとして、汗の匂いが気になる。洗えるのもならば洗いたい。私は「洗う」という行為が好きだ。もちろん、自分の身体も。
夏は朝も夕方も、できればお昼にもシャワーを使いたいくらい、汗のべたべた感に包まれているのが嫌だ。今日もべたべたになってしまった身体を洗う為に浴室へと向かう。
夏でも我が家では湯船に浸かる習慣がある。今日も丁度いい湯加減の透明でピカピカなお湯が用意されていた。いつもお湯を準備してくれているのは私の母で、仕事しかしていない私は家事全般を母にまかせきりである。それがいいか悪いかについては議論してもどうしようもないことだ。悪いと言われてもできないものはできない。否定されようがされまいができないものはやりようがないのだから、私はこのまま生きると決めている。
表面の汗を洗い流してからゆっくりと湯船に浸かる。もう少し温いお湯が私は好みだが、一番風呂をいただいているのだから我慢しようと思った時だった。
「ねぇ、コレ、忘れてるよ?」
と、脱衣所で母の声がした。
はて、私は何か忘れ物をしただろうか。いつも入浴の際には洗髪後に頭に巻くタオルのみを持って入るはずだし、そのタオルは目の前にある。
「え?何を忘れてるって?」
と、返事をすると同時に、浴室の扉が少しだけ開いた。白く蒸気に満ちた空気が吸い込まれるように外へ逃げ出すのがもったいないような気分になる。少しだけ開いている扉の隙間をじっと見つめながら、
「だから何を忘れたって?、何にも忘れものなんかないよ。タオルも持って入ったし。」
と、不機嫌そうに言うと、母はくすくす笑いながら
「いつまでたってもバカな子だね、大事なものをすぐ忘れる。」
と、扉から手だけをニョキっと入れて忘れ物だという物体を浴室の中の私に差し出した。差し出された物体は、今にもドロリと溶けだしそうな生のタコであった。あまりの出来ごとに私は驚き過ぎて声が出ない。なぜ、生のタコを入浴に使用するのだろう。どうやって使用するのかもわからない。
私は黙ってそのタコを見つめることしかできなかった。
すると母は、
「早く取ってよ、死んじゃうじゃない。」
と、私がもたついているのがとても迷惑であるかのような音を出す。
「あ、ああ、うん、ごめん。」
ザブリと湯船から出て、ほとんど条件反射のように受け取ってしまった。
受け取ったタコはぬめっとした粘り気のある液体を身体から分泌させていて、一瞬気持ち悪さにゾッと寒気が走った。しかし受け取ってしまった以上これをどうにかしなければいけないと、置き場所を探す。置き場所といってもここは浴室であるから、湯船の中か、洗面器くらいしか置けるところがない。湯船に入れたらやっぱりすぐに死んでしまうのだろうから洗面器に入れておくしか方法はなく、そのままそこにある洗面器の中にタコをゆっくり入れた。
タコは狭い洗面器の中でたくさんある足をぐにょぐにょとくねらせて、洗面器内部に吸盤で貼りついていく。その絵はなんとも不気味で気持ちが悪く、アメリカ人がこのタコを悪魔だといって嫌う気持ちが理解できた。タコはもしかしなくとも気持ちの悪い生物だ。
しかし、このタコをどのようにしてここで使えばよいのか少しも見当がつかない。母は先ほど私がこれを「忘れた」と言っていて、普段私がこれを入浴に使用していたかのような口ぶりであったが、私にその記憶は一切ない。これは一体どういうことだろうか。
この状況を冷静に分析すると、どう考えても私は重度な記憶障害を起こしていると考えられる。一般家庭の普通に起こりうる日常の事柄が分からなくなってしまうほどの病気であることは確かだが、いつどのようにその病気にかかってしまったのかがわからない。これは素直に親に聞いてもよいことなのだろうか。それともそんなことを聞いてしまったら親はショックだろうか。できるだけ親には精神的負担は与えたくないので、もうしばらくこのタコの使い道について考えてみようと思った。
とりあえず、このタコにしか見えない物体の使い道は、このタコをどうにかいじくっているうちに思い出すかもしれないと、触ってみる。
気持ち悪い。
どうにもコレをどうしたいとも思えない。
しかしもっと冷静に、客観的に考えてみようと努めた。
ここは浴室であり、身体を洗う場所であるから、身体を洗う行為に対して使用する確率が高いのではないか…とか、湯船があるということは、入浴剤的な使用方法も考えられるが、そもそもタコはお湯に弱いのではないかと考えると「早くしないと死んじゃう」という母の言葉から、死んでしまってはいけないものだと推測できるので、お湯に入れて使用する確率は低い。
じゃあやっぱりコレで身体を洗う?
そんな恐ろしいことを私は毎日していたのか?
深く考え込んでもさっぱり思い出す気配がないし、早くしないと死んでしまう。この浴室の蒸気でタコはもう弱ってきている。母の言い回しだとこのタコは生きているから「いいもの」であり、死んでしまっては「よくないもの」だ。それにタコは死骸の美しさレベルはたぶん低い。
仕方ない。勇気を振り絞ってやってしまおう。やれそうなことを全部。
私は洗面器の中でぐねぐねと動き回るタコの首の部分を右手でガシっと掴み、左手で洗面器の淵を持ち、吸いついてぴったりとくっついている吸盤を無理やりひきはがした。けっこうな力を入れないと吸盤ははがれなかった。
そして右手にぶらりとしたタコを持ち、おそるおそる左腕に乗せた。タコの温度を肌で感じる瞬間、ゾクゾクと鳥肌になる。そんな鳥肌とドキドキは一瞬にして恐怖に変わった。タコが素早く私の左腕に巻き付き、ものすごい勢いで吸盤をぺたぺたと張り巡らせたのだ。
怖っ、怖いぞ、ヤバイ、どうしよう!
恐ろしくなった私は左腕に巻きついてしまったタコをひきはがそうと力を込めてタコの首根っこを持ち上げようとする。しかしタコの吸盤はビクともせず、異様に深く吸いついてくるのだ。
もしかしたらヤバイことをしてしまったのではないかと心臓がドクドクいいはじめた。吸盤の吸いつきがだんだんと強くなり、確実に痛みがある。痛い、このままでは皮膚がそぎ取られてしまうのではないかと思うほど痛くなってきた。
しかし慌ててはダメだ。こんな時は慌てふためくと殺られるのがどんな映画でも鉄則だ。とにかくこのタコをはがそうと考え、先ほどよりも力を入れてタコの首根っこを持つ手に集中して力を込める。まるでエイリアンと戦っているかのように必死の形相でタコと格闘した。
怖いと思う自分の心と戦って勝てば大概の事はやり遂げられるはず。
タコに殺やれて死ぬわけにはいかない、タコは本来人間が食物にしている生物なんだからそんなものに殺られるわけにはいかないんだ。
タコの首と思えるあたりに渾身の力を込めた。ぐにょり…ブチブチッ…場合によっては気持ちいい何かがちぎれる音。そしてタコは首から下を残して、頭のように見える部分だけ私に引きちぎられた。私の手の中にはぐにょぐにょなタコの頭の肉だけがたぷたぷと小刻みに蠢いている。気持ちが悪くなって床へ投げ捨てた。残された足部分はそれらを繋げていた根っこ部分がなくなり、まるで喜ぶようにものすごい速さで私の身体を這いずりまわって、背中や腹や足にまで散らばっていく。吸いつかれている部分は噛みつかれているように痛く、このままでは確実にこのタコの足に食べられてしまうと思った。
私は悲鳴を上げつつも、どうにか肩のあたりに吸いついていたタコの足を捕まえてそしてそいつに思い切り噛みついてやった。すると他の部分に吸いついている足の吸いつきが弱くなり、こいつらはバラバラでも連動していることがわかった。この一か所をどうにか叩きのめせば他の箇所にもダメージを与えられるということだ。だったらさっき切り離した頭のような部分を攻撃すればいいのではないだろうか。頭はその辺に放り投げてしまったが、一体どこへ行ったのだろうと辺りを見回すと、あんなにたぷたぷでぐにょぐにょだった頭は浴室の壁をアメーバのようによじ登り、私の手が届かない天井へと移動していた。
やられた。あんなところに移動されてはどうにもできない。やはり一か所の足を選んで食いちぎってやるしかない。しかし、タコの足は8本もあり、1本と戦っていても残りの7本が私を容赦なく攻撃する。しかも私の身体を好き勝手に這いずりまわっているということは、最悪、エロ系の惨劇にならないだろうかと不安になる。タコは嫌だ。軟体野郎と絡み合う趣味はない。昔、埼京線で外国人の痴漢にあった時のことを思い出した。怖くておぞましくて身動きのできない苦しい感覚。あの時、どうなってもいいからという覚悟を決めてもっと暴れてやればよかったと後悔する気持ちまで思い出す。そして今またこのおぞましさに包まれながら、吸いつかれる痛みと気持ち悪さに耐えつつ、戦い抜くことができるだろうか。
それでもやるしかない。私はこんなところでタコに殺られるわけにはいかないんだ。普段私がどんなふうにこのタコを使用していたのかはまだ謎ではあるけれど、私は常にこのタコに勝っていたはずだ。どうにかなるはずだ。
しばらくの間繰り広げられた死闘。私はどうにか痛みに耐え、タコの足をこれでもかと言うほど食いちぎっていた。飲み込みたくはないので、食いちぎり、ペッと吐き出す…そんな作業を繰り返しつつ、吐き出されたタコ肉の欠片を目で追うと、ビチビチと2、3度踊った後にパタリと生気を失っていくのがわかった。
だんだんとタコの吸いつきが弱まっていく。吸いつきが弱まったところですかさず身体から剥がし、とどめを刺した。全てのタコの足はどれも動かなくなり、残すは天井に張り付いた頭部のみとなったわけだが、よく考えたら頭部は気持ち悪いだけであって戦闘能力があるとは思えない。吸盤もなければ口があるわけでもないのだから、最悪ほっておいても大丈夫だろうと思ったその時だった。
天井のタコは突然もごもごと身体に不気味な凹凸を作ってからミチミチという不快な音を立てて細かく分裂を始めた。30個くらいに分裂した肉片は個々で真ん丸な球体へと変化していく。これから一体何が起きるのだろうととてつもない不安が襲ってはくるけれど、だからこそ目が離せない。
球体になっても粘りの成分からか、その肉片は下へは落下せず天井にくっついたままだ。そしてゆっくりと少しづつ私の真上へと移動してくる。なんだか嫌な予感がした。そして私の真上に集まったその球体な肉片は一斉に私をめがけてものすごい勢いで落ちてきたのだ。
痛すぎる衝撃に思わず目を細めてしまう。肉片は私に当たるとピンポン玉のように跳ね返り、浴室中を駆け巡るように壁や天井にアタックした後、お湯の張ってある浴槽に次々と落ちて行った。ジャボン、ジャボンという音を立てて勢いよくお湯に落ちていく。全ての肉片が浴槽の中に入ってしまうと、辺りはとても静かになり、肉片がお湯に溶けていく小さな音だけがチリチリと響き渡っていた。
これで終わったのだろうか。
これが使い方なのだろうか。
一体何がしたくて、どれが目的なのかが一つも分からない。
そして、タコがお湯に溶けるということを初めて知った…。
頭部の最期の攻撃はたぶん、足をやられてしまった腹いせだろう。ただ死ぬだけっていうのも面白くないっていうその根性は認めてあげなくもないが、かなり痛かったから簡単に許す気にはなれないけれど、見習おうとは思った。
そして浴室の独特な熱気の中、私は静かに茫然としていた。
するとドアの向こうで母の声がした。
「ねぇ、これもいる?」
と、聞こえたと同時にまたドアが少しだけ開き、疲れ果てた私に差し出されたのは大きなイカだった。
そして、もう勘弁してくれ…と、思ったことろで夢は覚めたのであった。
くだらなくてごめんなさい<(_ _)>

頭の沸き加減も暑さと共に上昇中。
だから本日の以下の長文は読まない方が身のためです。
暑中お見舞い申し上げ。
【入浴惨劇】
ウォッシャブルスーツに魅かれて購入するくらい、夏の暑さはいいとして、汗の匂いが気になる。洗えるのもならば洗いたい。私は「洗う」という行為が好きだ。もちろん、自分の身体も。
夏は朝も夕方も、できればお昼にもシャワーを使いたいくらい、汗のべたべた感に包まれているのが嫌だ。今日もべたべたになってしまった身体を洗う為に浴室へと向かう。
夏でも我が家では湯船に浸かる習慣がある。今日も丁度いい湯加減の透明でピカピカなお湯が用意されていた。いつもお湯を準備してくれているのは私の母で、仕事しかしていない私は家事全般を母にまかせきりである。それがいいか悪いかについては議論してもどうしようもないことだ。悪いと言われてもできないものはできない。否定されようがされまいができないものはやりようがないのだから、私はこのまま生きると決めている。
表面の汗を洗い流してからゆっくりと湯船に浸かる。もう少し温いお湯が私は好みだが、一番風呂をいただいているのだから我慢しようと思った時だった。
「ねぇ、コレ、忘れてるよ?」
と、脱衣所で母の声がした。
はて、私は何か忘れ物をしただろうか。いつも入浴の際には洗髪後に頭に巻くタオルのみを持って入るはずだし、そのタオルは目の前にある。
「え?何を忘れてるって?」
と、返事をすると同時に、浴室の扉が少しだけ開いた。白く蒸気に満ちた空気が吸い込まれるように外へ逃げ出すのがもったいないような気分になる。少しだけ開いている扉の隙間をじっと見つめながら、
「だから何を忘れたって?、何にも忘れものなんかないよ。タオルも持って入ったし。」
と、不機嫌そうに言うと、母はくすくす笑いながら
「いつまでたってもバカな子だね、大事なものをすぐ忘れる。」
と、扉から手だけをニョキっと入れて忘れ物だという物体を浴室の中の私に差し出した。差し出された物体は、今にもドロリと溶けだしそうな生のタコであった。あまりの出来ごとに私は驚き過ぎて声が出ない。なぜ、生のタコを入浴に使用するのだろう。どうやって使用するのかもわからない。
私は黙ってそのタコを見つめることしかできなかった。
すると母は、
「早く取ってよ、死んじゃうじゃない。」
と、私がもたついているのがとても迷惑であるかのような音を出す。
「あ、ああ、うん、ごめん。」
ザブリと湯船から出て、ほとんど条件反射のように受け取ってしまった。
受け取ったタコはぬめっとした粘り気のある液体を身体から分泌させていて、一瞬気持ち悪さにゾッと寒気が走った。しかし受け取ってしまった以上これをどうにかしなければいけないと、置き場所を探す。置き場所といってもここは浴室であるから、湯船の中か、洗面器くらいしか置けるところがない。湯船に入れたらやっぱりすぐに死んでしまうのだろうから洗面器に入れておくしか方法はなく、そのままそこにある洗面器の中にタコをゆっくり入れた。
タコは狭い洗面器の中でたくさんある足をぐにょぐにょとくねらせて、洗面器内部に吸盤で貼りついていく。その絵はなんとも不気味で気持ちが悪く、アメリカ人がこのタコを悪魔だといって嫌う気持ちが理解できた。タコはもしかしなくとも気持ちの悪い生物だ。
しかし、このタコをどのようにしてここで使えばよいのか少しも見当がつかない。母は先ほど私がこれを「忘れた」と言っていて、普段私がこれを入浴に使用していたかのような口ぶりであったが、私にその記憶は一切ない。これは一体どういうことだろうか。
この状況を冷静に分析すると、どう考えても私は重度な記憶障害を起こしていると考えられる。一般家庭の普通に起こりうる日常の事柄が分からなくなってしまうほどの病気であることは確かだが、いつどのようにその病気にかかってしまったのかがわからない。これは素直に親に聞いてもよいことなのだろうか。それともそんなことを聞いてしまったら親はショックだろうか。できるだけ親には精神的負担は与えたくないので、もうしばらくこのタコの使い道について考えてみようと思った。
とりあえず、このタコにしか見えない物体の使い道は、このタコをどうにかいじくっているうちに思い出すかもしれないと、触ってみる。
気持ち悪い。
どうにもコレをどうしたいとも思えない。
しかしもっと冷静に、客観的に考えてみようと努めた。
ここは浴室であり、身体を洗う場所であるから、身体を洗う行為に対して使用する確率が高いのではないか…とか、湯船があるということは、入浴剤的な使用方法も考えられるが、そもそもタコはお湯に弱いのではないかと考えると「早くしないと死んじゃう」という母の言葉から、死んでしまってはいけないものだと推測できるので、お湯に入れて使用する確率は低い。
じゃあやっぱりコレで身体を洗う?
そんな恐ろしいことを私は毎日していたのか?
深く考え込んでもさっぱり思い出す気配がないし、早くしないと死んでしまう。この浴室の蒸気でタコはもう弱ってきている。母の言い回しだとこのタコは生きているから「いいもの」であり、死んでしまっては「よくないもの」だ。それにタコは死骸の美しさレベルはたぶん低い。
仕方ない。勇気を振り絞ってやってしまおう。やれそうなことを全部。
私は洗面器の中でぐねぐねと動き回るタコの首の部分を右手でガシっと掴み、左手で洗面器の淵を持ち、吸いついてぴったりとくっついている吸盤を無理やりひきはがした。けっこうな力を入れないと吸盤ははがれなかった。
そして右手にぶらりとしたタコを持ち、おそるおそる左腕に乗せた。タコの温度を肌で感じる瞬間、ゾクゾクと鳥肌になる。そんな鳥肌とドキドキは一瞬にして恐怖に変わった。タコが素早く私の左腕に巻き付き、ものすごい勢いで吸盤をぺたぺたと張り巡らせたのだ。
怖っ、怖いぞ、ヤバイ、どうしよう!
恐ろしくなった私は左腕に巻きついてしまったタコをひきはがそうと力を込めてタコの首根っこを持ち上げようとする。しかしタコの吸盤はビクともせず、異様に深く吸いついてくるのだ。
もしかしたらヤバイことをしてしまったのではないかと心臓がドクドクいいはじめた。吸盤の吸いつきがだんだんと強くなり、確実に痛みがある。痛い、このままでは皮膚がそぎ取られてしまうのではないかと思うほど痛くなってきた。
しかし慌ててはダメだ。こんな時は慌てふためくと殺られるのがどんな映画でも鉄則だ。とにかくこのタコをはがそうと考え、先ほどよりも力を入れてタコの首根っこを持つ手に集中して力を込める。まるでエイリアンと戦っているかのように必死の形相でタコと格闘した。
怖いと思う自分の心と戦って勝てば大概の事はやり遂げられるはず。
タコに殺やれて死ぬわけにはいかない、タコは本来人間が食物にしている生物なんだからそんなものに殺られるわけにはいかないんだ。
タコの首と思えるあたりに渾身の力を込めた。ぐにょり…ブチブチッ…場合によっては気持ちいい何かがちぎれる音。そしてタコは首から下を残して、頭のように見える部分だけ私に引きちぎられた。私の手の中にはぐにょぐにょなタコの頭の肉だけがたぷたぷと小刻みに蠢いている。気持ちが悪くなって床へ投げ捨てた。残された足部分はそれらを繋げていた根っこ部分がなくなり、まるで喜ぶようにものすごい速さで私の身体を這いずりまわって、背中や腹や足にまで散らばっていく。吸いつかれている部分は噛みつかれているように痛く、このままでは確実にこのタコの足に食べられてしまうと思った。
私は悲鳴を上げつつも、どうにか肩のあたりに吸いついていたタコの足を捕まえてそしてそいつに思い切り噛みついてやった。すると他の部分に吸いついている足の吸いつきが弱くなり、こいつらはバラバラでも連動していることがわかった。この一か所をどうにか叩きのめせば他の箇所にもダメージを与えられるということだ。だったらさっき切り離した頭のような部分を攻撃すればいいのではないだろうか。頭はその辺に放り投げてしまったが、一体どこへ行ったのだろうと辺りを見回すと、あんなにたぷたぷでぐにょぐにょだった頭は浴室の壁をアメーバのようによじ登り、私の手が届かない天井へと移動していた。
やられた。あんなところに移動されてはどうにもできない。やはり一か所の足を選んで食いちぎってやるしかない。しかし、タコの足は8本もあり、1本と戦っていても残りの7本が私を容赦なく攻撃する。しかも私の身体を好き勝手に這いずりまわっているということは、最悪、エロ系の惨劇にならないだろうかと不安になる。タコは嫌だ。軟体野郎と絡み合う趣味はない。昔、埼京線で外国人の痴漢にあった時のことを思い出した。怖くておぞましくて身動きのできない苦しい感覚。あの時、どうなってもいいからという覚悟を決めてもっと暴れてやればよかったと後悔する気持ちまで思い出す。そして今またこのおぞましさに包まれながら、吸いつかれる痛みと気持ち悪さに耐えつつ、戦い抜くことができるだろうか。
それでもやるしかない。私はこんなところでタコに殺られるわけにはいかないんだ。普段私がどんなふうにこのタコを使用していたのかはまだ謎ではあるけれど、私は常にこのタコに勝っていたはずだ。どうにかなるはずだ。
しばらくの間繰り広げられた死闘。私はどうにか痛みに耐え、タコの足をこれでもかと言うほど食いちぎっていた。飲み込みたくはないので、食いちぎり、ペッと吐き出す…そんな作業を繰り返しつつ、吐き出されたタコ肉の欠片を目で追うと、ビチビチと2、3度踊った後にパタリと生気を失っていくのがわかった。
だんだんとタコの吸いつきが弱まっていく。吸いつきが弱まったところですかさず身体から剥がし、とどめを刺した。全てのタコの足はどれも動かなくなり、残すは天井に張り付いた頭部のみとなったわけだが、よく考えたら頭部は気持ち悪いだけであって戦闘能力があるとは思えない。吸盤もなければ口があるわけでもないのだから、最悪ほっておいても大丈夫だろうと思ったその時だった。
天井のタコは突然もごもごと身体に不気味な凹凸を作ってからミチミチという不快な音を立てて細かく分裂を始めた。30個くらいに分裂した肉片は個々で真ん丸な球体へと変化していく。これから一体何が起きるのだろうととてつもない不安が襲ってはくるけれど、だからこそ目が離せない。
球体になっても粘りの成分からか、その肉片は下へは落下せず天井にくっついたままだ。そしてゆっくりと少しづつ私の真上へと移動してくる。なんだか嫌な予感がした。そして私の真上に集まったその球体な肉片は一斉に私をめがけてものすごい勢いで落ちてきたのだ。
痛すぎる衝撃に思わず目を細めてしまう。肉片は私に当たるとピンポン玉のように跳ね返り、浴室中を駆け巡るように壁や天井にアタックした後、お湯の張ってある浴槽に次々と落ちて行った。ジャボン、ジャボンという音を立てて勢いよくお湯に落ちていく。全ての肉片が浴槽の中に入ってしまうと、辺りはとても静かになり、肉片がお湯に溶けていく小さな音だけがチリチリと響き渡っていた。
これで終わったのだろうか。
これが使い方なのだろうか。
一体何がしたくて、どれが目的なのかが一つも分からない。
そして、タコがお湯に溶けるということを初めて知った…。
頭部の最期の攻撃はたぶん、足をやられてしまった腹いせだろう。ただ死ぬだけっていうのも面白くないっていうその根性は認めてあげなくもないが、かなり痛かったから簡単に許す気にはなれないけれど、見習おうとは思った。
そして浴室の独特な熱気の中、私は静かに茫然としていた。
するとドアの向こうで母の声がした。
「ねぇ、これもいる?」
と、聞こえたと同時にまたドアが少しだけ開き、疲れ果てた私に差し出されたのは大きなイカだった。
そして、もう勘弁してくれ…と、思ったことろで夢は覚めたのであった。
くだらなくてごめんなさい<(_ _)>



カテゴリ合ってますか…。
主婦日記とかには混ぜてもらえない気がするんですよ。
カテゴリ分けって難しい。音楽関連のトコに行ってもいいかなぁ。
立方晶窒化炭素 IKプロデュース♪
魔除け・邪気避け系、ブラックテイストパワーストーンショップ
インクルージョンイズム

テーマ: ひとりごとのようなもの
ジャンル: 日記
七夕に思い出す、鮭の歌。
こんばんは、40代になりました、炭素IKです。
メール、メッセをくれた皆様、ありがとうございました<(_ _)>
考えてみると、誕生日っていうのは人生のうち、100回も経験できるものではありません。100歳まで生きれば別ですけど、生きたとしてもそうそう好きなように動き回ってもいられないと思います。
だから、好き勝手なことができる誕生日なんていうものはあと何回経験できるのかってハナシです。
誕生日には好きなことをして好きなように時間を過ごす。
最高の贅沢ではないですか。
年を重ねるにつれて、「あんまりめでたくない」なんていう気持ちが芽生えちゃったりもしますが、この世に誕生した記念日です。誰にでもあるけれど、年に一回しかないんです。ちょっとくらい自分を甘やかして心に残る誕生記念日を思い出として残すのもステキなことだと思うのです。
そして私は誕生日の夜、家族が寝静まるのを待ってふらりふらりと徘徊するのでしたw

夜の街というのは、小さな箱みたいなスペースで区切られた空間がたくさんあって、その小さな空間にはそれぞれ人の想いが交錯しております。いろんな人がいて、いろんな色に見えます。綺麗な色もあれば汚い色もあって、それらがごちゃまぜに混ざって、まるでマーブル模様のように見えます。
見たことのない箱の中がいくらでもある。似通った中身だったとしても私は開けずにはいられません。開けて、開けて、開けまくるのです。経験が増えるに連れて得られる感動が少なくなるのだとしても、それでも開けないわけにはいきません。一体何が私を呼ぶのだろうかと思いながらも、何かを想うために彷徨い、その彷徨う行為を楽しめるうちは楽しんでおこうと思います。

ところで、明日は七夕ってヤツですね。
おり姫とひこ星伝説の七夕。
メルヘンなおとぎ話。小さい頃、大好きな王子様的な人に一年に一回しか会えないなんて、なんと可愛そうな姫であるか…と哀しい気持ちになる前に、私だったらその「天の川」、無理やりにでもサブサブ渡って会いにいくんじゃないかなぁ…なんて思ってました。何にもしないで待っているだけのおり姫とひこ星に、貴様らはそれでいいんか!と言ってやりたくて仕方なかったです。熱い心を持っていたんですなぁ。
でも今考えると「年に一回しか会わない単身赴任ですか。面倒じゃなくていいんじゃないすかね。」なんて言えちゃうんですから、時の流れとは恐ろしいものです。明日の七夕にはぜひ、一年に一度の楽しいデート…いや、一年に一度だからこそ楽しいデートを堪能していただきたいものだと心から思います。
だけど星の寿命を考えると365日なんていうのは3秒くらいのハナシらしいですから、可哀そうでもなんでもないかもしれませんけどね。
そして七夕である明日は、息子の学校の音楽祭でございます。ばーちゃんと私で見に行きます。七夕のお歌でも歌うのかなぁ~と思いきや「すずめのサンバ」だそうです。何それ七夕関係ないじゃん、なかなか面白い選曲だなぁ…と思ってみたり。
七夕に開催される音楽祭は誰もが「七夕の歌」を歌うものだと思うはず。でもそんな当たり前の時代はもうダメだ、七夕にまどわされず、新しい時代の新風を巻き起こすべきだ!と、きっとお代官様が考えたに違いない。
「七夕の日にはスズメに活躍してもらおうじゃないか…誰もいきなりスズメが出てくるとは思うまい、くっくっくっ、観客どもの驚く顔が目に浮かぶようじゃ、ふぉーっっほっほっほほほほほ。」
「さすがはお代官様。まさか七夕にスズメ、しかもサンバは誰も思いつくはずがございません。人々の驚愕の表情、ワタクシも楽しみでございます。」
「ふっふっふっ、越後屋、お主も悪よのぅ…。」
たぶんこんなカンジで「スズメのサンバ」なんだと思います。
楽しく歌っておくれ、我が息子。
私は昔から嫌いな歌は歌いたくない可愛げのない子供でした。小学校の音楽祭で一番歌ってて勘弁してもらいたかったのは「鮭の歌」(鮭が川に戻ってきて産卵する習性を約束と題して美化したお歌)。
とにかく熱血な担任のセンセーは、心を込めて、鮭の気持ちになって歌えと言うのです。鮭は辛く厳しい棘の道を乗り越えて、そして卵を産むために頑張っているのだと言いました。どんなに苦しいことにも負けずに川をのぼっていくというのはものすごく根性がいることで、並大抵の努力では産卵場所にはたどり着けないと言っていました。それでも約束を果たすために命がけで頑張っている、そんな鮭の気持ちを考えて、この歌を歌えと言うのですよ…。
素直に、なんでセンセーは鮭にここまで感情移入できんの?というのがまず本音。
で、偏屈野郎なワタクシですから、
そこまで鮭を愛してんなら鮭食うな。とか、
そんだけ辛い思いをして産み落としたっていうイクラを食うな。とか、思ってしまいます。
挙句の果てに、
♪鮭よ 荒波に 揉まれて幾年か~♪
ていうところで「ストーーーーーーップ!!!!!」と、怒りだし、
「本当に鮭の気持ちになって歌っていますか?」等と、まるで道徳の授業のように説教が始まるんですから、ソレ系が大嫌いな私はもういてもたってもいられなくなってしまうわけです。
別にね、「鮭の歌」っていう歌があってもいいんだけど、私は鮭の気持ちにはなりたくないし、もちろん感情込めてなんて歌いたくもないし、鮭を尊敬しているわけでも、溺愛しているわけでもないんだから、いろいろ無理!ってなってしまうんです。
でも私はそんな、思ったことを素直に先生に言ってしまうほどバカなわけでもないんです。言っても無駄であることは言ってはいけないと思っているし、一応優等生の仮面を被っていたので、とにかく無言でそのストレスと戦うしかなかったのです。
しかし、私の体質というのは困った体質で、瞬間的にさえストレスを溜めこむことができません。我慢するはずのそのストレス。鮭の気持ちにはなりたくないというストレス。そのストレスはすぐに形となってあらわれでました。わかりやすい形です。見ればすぐわかっちゃう形なんです。
「いずきちさん、何ですか、その顔は。」
そう言われて初めて、私は自分の顔のあご部分に異様な力を入れていることに気が付きました。下あごをギっと突き出し、しゃくれさせていたのです。そう、身体で鮭を表現しておりました。心は自由、私は鮭の気持ちにだけはならん、という頑なな心が、私の顔をそうさせてしまったのかもしれません。
顔を鮭にしている私の方を同級生たちが一斉に見ました。私はこんな時、直ちに顔を元に戻して恥ずがっている姿を晒すなら、いっそこのままこれを貫きたいと思ってしまうしょーもない(治せない)性格です。ですから私は下あごを突き出し、顔を鮭にしたまま先生に
「鮭になってます。」
と言ったのです。
今風に言えば「アイーン」ってヤツです。こんなんでホント、よく私を好きになってくれる男の子がいたよなぁって不思議に思えるほどバカとしか言いようがありませんが、いろいろな選択肢において常におかしな方向を選ぶクセのある私は、決して受け狙いでなくこれをやってのけたわけです。
堂々とそういった私を先生は怒りませんでした。先生は鮭の気持ちになろうとするあまりに、そういう顔になってしまったものだと解釈したらしいのです。和やかな笑とい共に、
「顔まで鮭にならなくてもいいのよ?」と、優しく私に笑いかけてくれました。
その瞬間私の心には葛藤が生まれます。
ここで鮭をやめるべきか、やめないべきか。
顔ではなく、気持ちで鮭になれという先生に対して、説明のできない反抗心が生まれちゃって生まれちゃってどうにもならないのです。どうしてそういう無意味な反発をしたくなってしまうのか分かりませんが、
「わかりました、顔でなく心で鮭になります。」と、なぜか言えなかったんです。
無言でしゃくれあごのまま、先生を見つめる少女いずきち。
先生も恐ろしかったんじゃないかと思いますけど、私は私でワケはわかりませんが辛かったです。
その後、その異様な雰囲気をどうにかしようと先生はしゃくれ顔の私から目をそらし、何事もなかったかのように歌の練習に戻りました。私はしゃくれ顔を崩さずに歌を歌いました。だんだんあごが疲れて辛くなってきましたが、完全に顔を元に戻すタイミングを失ってしまったのでもうこのままいるしかありません。
地獄のような歌の練習時間になりました。
「鮭の歌」を鮭の顔で歌う少女。なかなかいないと思います。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう…と少し思いましたがその時はただ、しゃくれているのが恥ずかしいのではなく、あごが痛くて辛かった。ある意味辛いという感情で歌った私が一番鮭の気持ちに近かったのかもしれません。
そんな私は今、ヴォーカリスト。
あの時言えなかった言葉、
「私はこんな歌は歌いたくない!」
そんな、思い出。
(あと、「鮭の歌」じゃなくて「約束」っていう歌だった)
メール、メッセをくれた皆様、ありがとうございました<(_ _)>
考えてみると、誕生日っていうのは人生のうち、100回も経験できるものではありません。100歳まで生きれば別ですけど、生きたとしてもそうそう好きなように動き回ってもいられないと思います。
だから、好き勝手なことができる誕生日なんていうものはあと何回経験できるのかってハナシです。
誕生日には好きなことをして好きなように時間を過ごす。
最高の贅沢ではないですか。
年を重ねるにつれて、「あんまりめでたくない」なんていう気持ちが芽生えちゃったりもしますが、この世に誕生した記念日です。誰にでもあるけれど、年に一回しかないんです。ちょっとくらい自分を甘やかして心に残る誕生記念日を思い出として残すのもステキなことだと思うのです。
そして私は誕生日の夜、家族が寝静まるのを待ってふらりふらりと徘徊するのでしたw

夜の街というのは、小さな箱みたいなスペースで区切られた空間がたくさんあって、その小さな空間にはそれぞれ人の想いが交錯しております。いろんな人がいて、いろんな色に見えます。綺麗な色もあれば汚い色もあって、それらがごちゃまぜに混ざって、まるでマーブル模様のように見えます。
見たことのない箱の中がいくらでもある。似通った中身だったとしても私は開けずにはいられません。開けて、開けて、開けまくるのです。経験が増えるに連れて得られる感動が少なくなるのだとしても、それでも開けないわけにはいきません。一体何が私を呼ぶのだろうかと思いながらも、何かを想うために彷徨い、その彷徨う行為を楽しめるうちは楽しんでおこうと思います。

ところで、明日は七夕ってヤツですね。
おり姫とひこ星伝説の七夕。
メルヘンなおとぎ話。小さい頃、大好きな王子様的な人に一年に一回しか会えないなんて、なんと可愛そうな姫であるか…と哀しい気持ちになる前に、私だったらその「天の川」、無理やりにでもサブサブ渡って会いにいくんじゃないかなぁ…なんて思ってました。何にもしないで待っているだけのおり姫とひこ星に、貴様らはそれでいいんか!と言ってやりたくて仕方なかったです。熱い心を持っていたんですなぁ。
でも今考えると「年に一回しか会わない単身赴任ですか。面倒じゃなくていいんじゃないすかね。」なんて言えちゃうんですから、時の流れとは恐ろしいものです。明日の七夕にはぜひ、一年に一度の楽しいデート…いや、一年に一度だからこそ楽しいデートを堪能していただきたいものだと心から思います。
だけど星の寿命を考えると365日なんていうのは3秒くらいのハナシらしいですから、可哀そうでもなんでもないかもしれませんけどね。
そして七夕である明日は、息子の学校の音楽祭でございます。ばーちゃんと私で見に行きます。七夕のお歌でも歌うのかなぁ~と思いきや「すずめのサンバ」だそうです。何それ七夕関係ないじゃん、なかなか面白い選曲だなぁ…と思ってみたり。
七夕に開催される音楽祭は誰もが「七夕の歌」を歌うものだと思うはず。でもそんな当たり前の時代はもうダメだ、七夕にまどわされず、新しい時代の新風を巻き起こすべきだ!と、きっとお代官様が考えたに違いない。
「七夕の日にはスズメに活躍してもらおうじゃないか…誰もいきなりスズメが出てくるとは思うまい、くっくっくっ、観客どもの驚く顔が目に浮かぶようじゃ、ふぉーっっほっほっほほほほほ。」
「さすがはお代官様。まさか七夕にスズメ、しかもサンバは誰も思いつくはずがございません。人々の驚愕の表情、ワタクシも楽しみでございます。」
「ふっふっふっ、越後屋、お主も悪よのぅ…。」
たぶんこんなカンジで「スズメのサンバ」なんだと思います。
楽しく歌っておくれ、我が息子。
私は昔から嫌いな歌は歌いたくない可愛げのない子供でした。小学校の音楽祭で一番歌ってて勘弁してもらいたかったのは「鮭の歌」(鮭が川に戻ってきて産卵する習性を約束と題して美化したお歌)。
とにかく熱血な担任のセンセーは、心を込めて、鮭の気持ちになって歌えと言うのです。鮭は辛く厳しい棘の道を乗り越えて、そして卵を産むために頑張っているのだと言いました。どんなに苦しいことにも負けずに川をのぼっていくというのはものすごく根性がいることで、並大抵の努力では産卵場所にはたどり着けないと言っていました。それでも約束を果たすために命がけで頑張っている、そんな鮭の気持ちを考えて、この歌を歌えと言うのですよ…。
素直に、なんでセンセーは鮭にここまで感情移入できんの?というのがまず本音。
で、偏屈野郎なワタクシですから、
そこまで鮭を愛してんなら鮭食うな。とか、
そんだけ辛い思いをして産み落としたっていうイクラを食うな。とか、思ってしまいます。
挙句の果てに、
♪鮭よ 荒波に 揉まれて幾年か~♪
ていうところで「ストーーーーーーップ!!!!!」と、怒りだし、
「本当に鮭の気持ちになって歌っていますか?」等と、まるで道徳の授業のように説教が始まるんですから、ソレ系が大嫌いな私はもういてもたってもいられなくなってしまうわけです。
別にね、「鮭の歌」っていう歌があってもいいんだけど、私は鮭の気持ちにはなりたくないし、もちろん感情込めてなんて歌いたくもないし、鮭を尊敬しているわけでも、溺愛しているわけでもないんだから、いろいろ無理!ってなってしまうんです。
でも私はそんな、思ったことを素直に先生に言ってしまうほどバカなわけでもないんです。言っても無駄であることは言ってはいけないと思っているし、一応優等生の仮面を被っていたので、とにかく無言でそのストレスと戦うしかなかったのです。
しかし、私の体質というのは困った体質で、瞬間的にさえストレスを溜めこむことができません。我慢するはずのそのストレス。鮭の気持ちにはなりたくないというストレス。そのストレスはすぐに形となってあらわれでました。わかりやすい形です。見ればすぐわかっちゃう形なんです。
「いずきちさん、何ですか、その顔は。」
そう言われて初めて、私は自分の顔のあご部分に異様な力を入れていることに気が付きました。下あごをギっと突き出し、しゃくれさせていたのです。そう、身体で鮭を表現しておりました。心は自由、私は鮭の気持ちにだけはならん、という頑なな心が、私の顔をそうさせてしまったのかもしれません。
顔を鮭にしている私の方を同級生たちが一斉に見ました。私はこんな時、直ちに顔を元に戻して恥ずがっている姿を晒すなら、いっそこのままこれを貫きたいと思ってしまうしょーもない(治せない)性格です。ですから私は下あごを突き出し、顔を鮭にしたまま先生に
「鮭になってます。」
と言ったのです。
今風に言えば「アイーン」ってヤツです。こんなんでホント、よく私を好きになってくれる男の子がいたよなぁって不思議に思えるほどバカとしか言いようがありませんが、いろいろな選択肢において常におかしな方向を選ぶクセのある私は、決して受け狙いでなくこれをやってのけたわけです。
堂々とそういった私を先生は怒りませんでした。先生は鮭の気持ちになろうとするあまりに、そういう顔になってしまったものだと解釈したらしいのです。和やかな笑とい共に、
「顔まで鮭にならなくてもいいのよ?」と、優しく私に笑いかけてくれました。
その瞬間私の心には葛藤が生まれます。
ここで鮭をやめるべきか、やめないべきか。
顔ではなく、気持ちで鮭になれという先生に対して、説明のできない反抗心が生まれちゃって生まれちゃってどうにもならないのです。どうしてそういう無意味な反発をしたくなってしまうのか分かりませんが、
「わかりました、顔でなく心で鮭になります。」と、なぜか言えなかったんです。
無言でしゃくれあごのまま、先生を見つめる少女いずきち。
先生も恐ろしかったんじゃないかと思いますけど、私は私でワケはわかりませんが辛かったです。
その後、その異様な雰囲気をどうにかしようと先生はしゃくれ顔の私から目をそらし、何事もなかったかのように歌の練習に戻りました。私はしゃくれ顔を崩さずに歌を歌いました。だんだんあごが疲れて辛くなってきましたが、完全に顔を元に戻すタイミングを失ってしまったのでもうこのままいるしかありません。
地獄のような歌の練習時間になりました。
「鮭の歌」を鮭の顔で歌う少女。なかなかいないと思います。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう…と少し思いましたがその時はただ、しゃくれているのが恥ずかしいのではなく、あごが痛くて辛かった。ある意味辛いという感情で歌った私が一番鮭の気持ちに近かったのかもしれません。
そんな私は今、ヴォーカリスト。
あの時言えなかった言葉、
「私はこんな歌は歌いたくない!」
そんな、思い出。
(あと、「鮭の歌」じゃなくて「約束」っていう歌だった)
趣味なんです、
こんばんは、立方晶窒化炭素IKでございます(-。-)y-゜゜゜
一日も一週間も鬼のように早くてめまぐるしい。週末のサイクルはこんなにも早いものであったかとしみじみ思う今日この頃。動いているのが好きであることは間違いない自分ですが、この年になると体力的な問題が浮上して参ります。
「あんた、なんでそんなに元気なの?」
と、周りの方々に言われているワタクシですが、最近疲れが取れにくくなっているこの現実とどうやって向き合おうかと模索中でございます。
それにしても考えると私には無駄な動きが多い。いや、私にとっては決して無駄ではないのですが、一般的に考えると無駄。原動力の源を疑われる行動と言えるのだと思います。
例えば週末…飲み会がいくつか重なっておりましてあちらこちらに顔を出します。「選べない」なら選ばなくてよろしい。全部行けばいいじゃないか…という主義でして、余計な悩み事はつくりません。選んだ場所によっては角が立つなら全部行く、秘密主義やめて正直に「ここにも、ここにも、ここにも行くんです。」と言えばいいのです。必要とされたり、望まれたりすることに感謝しつつ、誠実にお付き合いすればなんの問題もありません。ただしこれはお仕事のお付き合いの場合のみで、異性とのお付き合いとなると別です。どうにかならないもんかとそういう主義を貫き通した時代もありましたが見事にダメでした。(そりゃそうだ、と人は言う)
まぁ、そんなカンジでテンション上げて動き回っておりました。一つのところにいられる時間が短い分、その時間に集中してハイテンションを維持。疲れる要因でもありますが私はもともと落ち着きがあるかないかと言われたら確実に「ない」。そういう気性の人なので精神的には疲れません。たぶん体力的な問題だと思います。
そしてまず行き先の一つにコスパ。
コスプレなパーティー。(何してんの?という突っ込みな無しで)
どんなに短い時間でもコスパでは着替えますよ、もちろん。
でも選べと言われたのが、
「メイドかバドガール」
という、この年には辛いかもしれない二択。しかしそんなことは気にしません。気にしたら負けです。似合うか似合わないかは置いておくんじゃなくて、砲丸投げの要領で遠くの山に向かって全力で投げ捨ててやればいいのです。もちろん羞恥心なんていうものも一緒に。
私はメイドさんになることにしました。

バドガール衣装は、太くないだけでドラえもん(寸胴)な私にはちとキツイ。似合う似合わない以前の問題であります。最悪胸には詰め物をしたとしてもケツはどうにもなりません。即席の詰め物でなめらかなヒップラインを創り出すのは不可能と考え、メイドさんを選んだわけです。羞恥心を捨てたとしてもこだわりを捨ててはいけません。何事にも本気、くだらなければくだらないほど本気で挑むのがワタクシの武士道。
ちなみに隣のラブリーで逞しいチャイナガールはパット入りブラで私よりグラマーになっておりました。情事スポーツブラの私は最近のブラ事情をなめておりました。最近のブラの性能はガンダムがオートマになって驚いた時の空しさと切なさと滑稽さと時代の進化を感じます。作り上げることはある意味芸術ではありますが、あくまでもそれは偽り。ブラをはずせば跡形もなく取り去られてしまうその芸術作品に人は何を想うだろう…。パットは「もしやパットでは?」と分かるくらいがちょうどいいのかもしれません。万が一の時、一瞬で取り去られた芸術作品を前に「すんませんでした。」と謝るのだけはイヤだ!と思ってしまう私はやはり一昔前の人間なのだろうか…。
そしてメイドさんを終えて、また夜の旅を続けます。賑やかで華やかな時間を楽しく過ごしお開きとなる朝方、外へ出ると小雨が降っておりました。一緒にいた方たちを笑顔で見送りふと空を見上げるとうすら明るくて夕方のようです。でも空気は確実に朝で、不機嫌そうな濃い化粧を崩したお姉さんたちとすれ違ったりします。このまま数メートル歩いたところにいるタクシーに乗って家に帰ればいいものを、私は雨の中ふらふらと裏路地をさがして歩きだすのです。たぶんこんな時間は無駄。だけどそうしたいという欲求が生まれるのです。
これは趣味です。
一人でふらふらと心にしみわたる場所を探すという趣味なんです。
まずはどこへ行ったのかと言いますと、中町立体駐車場の裏。前からこの立体駐車場の構造と裏部分のスペースに興味がありました。でも真夜中では見えるものも見えない暗闇ですし、夕方では人目につきすぎます。不審者として通報されるのはちょっと勘弁してもらいたいので控えてましたが、今ならイケる。朝の4時、この薄暗さも最高です。私は一人、小雨の中を歩き目的の場所へとやってきました。思った通りのステキな場所。いつか誰かとこの場所で待ち合わせしてみたい…。日の当たらないブロック塀の裏側には深緑色の苔がびっしりついていて、デットスペースとしか言いようのない先細三角形な怪しげな一角や、人がやっと一人通れるくらいの小さな溝の先にある扉。あの扉を開けたらたぶん夢は崩れるのでしょうけれど、開けてみたい…。しかし開けられない今のこの瞬間、湧き上がるこの想いをどこでどうやって消化して表現しようかと、胸をはやらせてしまうのです。

さし障りのない言い方をすれば「変わった趣味」
ぶっちゃけると「変態」ですよね、たぶん。
こういう探検を一人で繰り広げてしまいます。行き止まりの通路の先に進みたくてアクロバティックなことを未だにやらかしてしまいます。雨に濡れながら一人朝方の駅前をさ迷い歩くのは、一体なぜ?と言われると私にとっては「趣味」であり、そして一般的には無駄な行動です。疲れる要因、でもやめられません。

雨に塗れるのもけっこう気持ちいいし。

路面の光り方が好き。
犯罪ではないことが救いですが、一緒にこんなことをして遊んでくれる人はまずいないでしょう(笑
でもいいんです。
私はこうやって心を動かすことに精を出し、どんな方向であれ豊かな感情を育み何らかの糧にして生きている生物なんだと思います。
「だから心が渇かない…」
って、静かなバーでタバコをふかし、ドヤ顔で語ったらけっこうカッコ良くないですかね。間違って惚れるヤツとかいそうじゃないですかねぇ…。(いない)
あー廃屋に住みつきたい。
一日も一週間も鬼のように早くてめまぐるしい。週末のサイクルはこんなにも早いものであったかとしみじみ思う今日この頃。動いているのが好きであることは間違いない自分ですが、この年になると体力的な問題が浮上して参ります。
「あんた、なんでそんなに元気なの?」
と、周りの方々に言われているワタクシですが、最近疲れが取れにくくなっているこの現実とどうやって向き合おうかと模索中でございます。
それにしても考えると私には無駄な動きが多い。いや、私にとっては決して無駄ではないのですが、一般的に考えると無駄。原動力の源を疑われる行動と言えるのだと思います。
例えば週末…飲み会がいくつか重なっておりましてあちらこちらに顔を出します。「選べない」なら選ばなくてよろしい。全部行けばいいじゃないか…という主義でして、余計な悩み事はつくりません。選んだ場所によっては角が立つなら全部行く、秘密主義やめて正直に「ここにも、ここにも、ここにも行くんです。」と言えばいいのです。必要とされたり、望まれたりすることに感謝しつつ、誠実にお付き合いすればなんの問題もありません。ただしこれはお仕事のお付き合いの場合のみで、異性とのお付き合いとなると別です。どうにかならないもんかとそういう主義を貫き通した時代もありましたが見事にダメでした。(そりゃそうだ、と人は言う)
まぁ、そんなカンジでテンション上げて動き回っておりました。一つのところにいられる時間が短い分、その時間に集中してハイテンションを維持。疲れる要因でもありますが私はもともと落ち着きがあるかないかと言われたら確実に「ない」。そういう気性の人なので精神的には疲れません。たぶん体力的な問題だと思います。
そしてまず行き先の一つにコスパ。
コスプレなパーティー。(何してんの?という突っ込みな無しで)
どんなに短い時間でもコスパでは着替えますよ、もちろん。
でも選べと言われたのが、
「メイドかバドガール」
という、この年には辛いかもしれない二択。しかしそんなことは気にしません。気にしたら負けです。似合うか似合わないかは置いておくんじゃなくて、砲丸投げの要領で遠くの山に向かって全力で投げ捨ててやればいいのです。もちろん羞恥心なんていうものも一緒に。
私はメイドさんになることにしました。

バドガール衣装は、太くないだけでドラえもん(寸胴)な私にはちとキツイ。似合う似合わない以前の問題であります。最悪胸には詰め物をしたとしてもケツはどうにもなりません。即席の詰め物でなめらかなヒップラインを創り出すのは不可能と考え、メイドさんを選んだわけです。羞恥心を捨てたとしてもこだわりを捨ててはいけません。何事にも本気、くだらなければくだらないほど本気で挑むのがワタクシの武士道。
ちなみに隣のラブリーで逞しいチャイナガールはパット入りブラで私よりグラマーになっておりました。情事スポーツブラの私は最近のブラ事情をなめておりました。最近のブラの性能はガンダムがオートマになって驚いた時の空しさと切なさと滑稽さと時代の進化を感じます。作り上げることはある意味芸術ではありますが、あくまでもそれは偽り。ブラをはずせば跡形もなく取り去られてしまうその芸術作品に人は何を想うだろう…。パットは「もしやパットでは?」と分かるくらいがちょうどいいのかもしれません。万が一の時、一瞬で取り去られた芸術作品を前に「すんませんでした。」と謝るのだけはイヤだ!と思ってしまう私はやはり一昔前の人間なのだろうか…。
そしてメイドさんを終えて、また夜の旅を続けます。賑やかで華やかな時間を楽しく過ごしお開きとなる朝方、外へ出ると小雨が降っておりました。一緒にいた方たちを笑顔で見送りふと空を見上げるとうすら明るくて夕方のようです。でも空気は確実に朝で、不機嫌そうな濃い化粧を崩したお姉さんたちとすれ違ったりします。このまま数メートル歩いたところにいるタクシーに乗って家に帰ればいいものを、私は雨の中ふらふらと裏路地をさがして歩きだすのです。たぶんこんな時間は無駄。だけどそうしたいという欲求が生まれるのです。
これは趣味です。
一人でふらふらと心にしみわたる場所を探すという趣味なんです。
まずはどこへ行ったのかと言いますと、中町立体駐車場の裏。前からこの立体駐車場の構造と裏部分のスペースに興味がありました。でも真夜中では見えるものも見えない暗闇ですし、夕方では人目につきすぎます。不審者として通報されるのはちょっと勘弁してもらいたいので控えてましたが、今ならイケる。朝の4時、この薄暗さも最高です。私は一人、小雨の中を歩き目的の場所へとやってきました。思った通りのステキな場所。いつか誰かとこの場所で待ち合わせしてみたい…。日の当たらないブロック塀の裏側には深緑色の苔がびっしりついていて、デットスペースとしか言いようのない先細三角形な怪しげな一角や、人がやっと一人通れるくらいの小さな溝の先にある扉。あの扉を開けたらたぶん夢は崩れるのでしょうけれど、開けてみたい…。しかし開けられない今のこの瞬間、湧き上がるこの想いをどこでどうやって消化して表現しようかと、胸をはやらせてしまうのです。

さし障りのない言い方をすれば「変わった趣味」
ぶっちゃけると「変態」ですよね、たぶん。
こういう探検を一人で繰り広げてしまいます。行き止まりの通路の先に進みたくてアクロバティックなことを未だにやらかしてしまいます。雨に濡れながら一人朝方の駅前をさ迷い歩くのは、一体なぜ?と言われると私にとっては「趣味」であり、そして一般的には無駄な行動です。疲れる要因、でもやめられません。

雨に塗れるのもけっこう気持ちいいし。

路面の光り方が好き。
犯罪ではないことが救いですが、一緒にこんなことをして遊んでくれる人はまずいないでしょう(笑
でもいいんです。
私はこうやって心を動かすことに精を出し、どんな方向であれ豊かな感情を育み何らかの糧にして生きている生物なんだと思います。
「だから心が渇かない…」
って、静かなバーでタバコをふかし、ドヤ顔で語ったらけっこうカッコ良くないですかね。間違って惚れるヤツとかいそうじゃないですかねぇ…。(いない)
あー廃屋に住みつきたい。